2009年10月19日
圧倒的な宿題の量と厳しい評価が次世代人材を創る
昔、航空会社かカード会社の定期刊行物で日本と米国の学生の宿題の量の違いを書いてあるコラムを読んだことがあります。
米国に駐在した方からも、留学した方からも米国で何が大変かというと一定以上の学校に子供が入ったり留学すると学校で渡される宿題の量が半端じゃなく多いということです。
大学までは子供に宿題をさせるのは親の責任ですし、大学に入るとレポートの提出やテストの成績が悪かったら学校から警告が来て、最悪、強制退学させられるというシステムです。
大学の学費も高く、アルバイトや奨学金などを得て大学に入っている学生からすると学業の成績が悪く強制退学させられることだけは避けたいと、カレッジスポーツなどで遠征続きの学生なども移動時間やホテルでは必死にレポートなどを作成しているのが米国の学生の現状のようです。
学業成績が優秀であること、スポーツやボランティアなどの活動を積極的に行っていること、その他自分の考えをしっかりと相手に伝えることができて相手の意見も受け入れることができるということが米国の教育が考えるビジネスエリートの姿ということになるのではないかと思います。
日本の現状は、個性を伸ばすために無理をしなくていいよ という教育になっていると思うので、ビジネスという競争の場で米国の学生やその卒業生と戦った場合には結果は見ているようにも感じます。
体格の差以上に、個人の仕事をこなせるキャパシティの違いが歴然のような気がします。
子供というのはもともと大きな潜在能力を持っていますので、その潜在能力をどのような場を提供して引き出すのかというのは大人が考えないといけないことになりますが、私の持論では日本は従来の学力偏重と呼ばれるくらいの教育を基本として、その基本学力の上にスポーツや社会活動という社会性を高める活動を更に乗せて子供に楽しく無理をさせるくらいの教育をしないと次世代の展望は明るくならないのではないかと思っています。
時間が無い
と親は言うかもしれません。
しかし、時間の作り方を子供に考えさせないと自分のペースという何も考えないで時間を浪費するような人間になってしまいます。
人間はいつか死ぬ
という大原則がありますので、時間というのは有限です。
その有限の時間を有効に使える能力というのは小さな時から学ばせとかないと大人になってから急にできるようにはなりません。
米国の教育は、ビジネスの原則に則っているように感じます。
自分のペースだけでは結果はでない
周囲からの仕事の割り込み、お客さまの無理な依頼、並行して仕事を行ってその中でも納期と品質は死守するということでビジネスパーソンは評価されます。
自分はそのような競争は向いていないので、自分のペースでやれるような仕事がないですか?
という若手社員もいますが、そのような姿勢でお金がもらえるような社会は昔から無いというのが正解ではないかと思っています。
そもそも、ゆとり教育は基礎学力を下げるための施策ではなく、基礎学力を維持してそのカリキュラムを見直して効率的に学習をさせて、ゆとりの時間を生み出し、そのゆとりの時間に個性という潜在的な可能性を引き出すという施策だったと思います。
自分のペースでいいんだよ
という教育ではなく、学校の成績も国際基準で、その上に必死に頑張って個性を引き出し付加価値として乗せるという優秀なリーダー輩出のためのものだったはずです。
今日は、学生団体のメイン活動のスタートのイベントの日になります。
4年生は卒論や卒業研究の時間をやりくりして頑張っています。
3年生は授業とサークル活動、アルバイト、就職活動の時間をやりくりして頑張っています。
普通で考えれば「時間がありません」という言葉が出てきてもいいのでしょうが、彼らは頑張っています。
また、私も「時間は自分でつくるもの」という指導をしています。
そのような経験が社会人になってから大きな力になります。
米国に駐在した方からも、留学した方からも米国で何が大変かというと一定以上の学校に子供が入ったり留学すると学校で渡される宿題の量が半端じゃなく多いということです。
大学までは子供に宿題をさせるのは親の責任ですし、大学に入るとレポートの提出やテストの成績が悪かったら学校から警告が来て、最悪、強制退学させられるというシステムです。
大学の学費も高く、アルバイトや奨学金などを得て大学に入っている学生からすると学業の成績が悪く強制退学させられることだけは避けたいと、カレッジスポーツなどで遠征続きの学生なども移動時間やホテルでは必死にレポートなどを作成しているのが米国の学生の現状のようです。
学業成績が優秀であること、スポーツやボランティアなどの活動を積極的に行っていること、その他自分の考えをしっかりと相手に伝えることができて相手の意見も受け入れることができるということが米国の教育が考えるビジネスエリートの姿ということになるのではないかと思います。
日本の現状は、個性を伸ばすために無理をしなくていいよ という教育になっていると思うので、ビジネスという競争の場で米国の学生やその卒業生と戦った場合には結果は見ているようにも感じます。
体格の差以上に、個人の仕事をこなせるキャパシティの違いが歴然のような気がします。
子供というのはもともと大きな潜在能力を持っていますので、その潜在能力をどのような場を提供して引き出すのかというのは大人が考えないといけないことになりますが、私の持論では日本は従来の学力偏重と呼ばれるくらいの教育を基本として、その基本学力の上にスポーツや社会活動という社会性を高める活動を更に乗せて子供に楽しく無理をさせるくらいの教育をしないと次世代の展望は明るくならないのではないかと思っています。
時間が無い
と親は言うかもしれません。
しかし、時間の作り方を子供に考えさせないと自分のペースという何も考えないで時間を浪費するような人間になってしまいます。
人間はいつか死ぬ
という大原則がありますので、時間というのは有限です。
その有限の時間を有効に使える能力というのは小さな時から学ばせとかないと大人になってから急にできるようにはなりません。
米国の教育は、ビジネスの原則に則っているように感じます。
自分のペースだけでは結果はでない
周囲からの仕事の割り込み、お客さまの無理な依頼、並行して仕事を行ってその中でも納期と品質は死守するということでビジネスパーソンは評価されます。
自分はそのような競争は向いていないので、自分のペースでやれるような仕事がないですか?
という若手社員もいますが、そのような姿勢でお金がもらえるような社会は昔から無いというのが正解ではないかと思っています。
そもそも、ゆとり教育は基礎学力を下げるための施策ではなく、基礎学力を維持してそのカリキュラムを見直して効率的に学習をさせて、ゆとりの時間を生み出し、そのゆとりの時間に個性という潜在的な可能性を引き出すという施策だったと思います。
自分のペースでいいんだよ
という教育ではなく、学校の成績も国際基準で、その上に必死に頑張って個性を引き出し付加価値として乗せるという優秀なリーダー輩出のためのものだったはずです。
今日は、学生団体のメイン活動のスタートのイベントの日になります。
4年生は卒論や卒業研究の時間をやりくりして頑張っています。
3年生は授業とサークル活動、アルバイト、就職活動の時間をやりくりして頑張っています。
普通で考えれば「時間がありません」という言葉が出てきてもいいのでしょうが、彼らは頑張っています。
また、私も「時間は自分でつくるもの」という指導をしています。
そのような経験が社会人になってから大きな力になります。